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交差点でお辞儀をしてわたる子ども

偉いですよね。

 

 

車は「横断歩道に歩行者がいたら止まる」というルールだから止まっているだけだといえばそうなんですが、ともかくも、止まってくれた車に対してお辞儀をするというのはよいことだと思います。止まった方としても、「あ、お辞儀してくれた。うれしい」ってなりますし。

 

 

 

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本題はここからなんですが。ちょっと社会学的な分析をしてみます。

 

 

 

実はこの話、X(Twitter)やヤフーコメント欄が荒れる定番ネタなんです。

 

 

 

反対派はの意見はおおまか以下に集約されます。

 

 

① 当然の交通ルールなのに子どもにお辞儀を強要するのが気持ち悪い

② お辞儀なんていらんからさっさとわたれ

 

 

②はネタとして笑っていいレベルな気がしますが、①は結構深刻な、というか残念な話です。

 

 

 

深刻だと思う点を書いてみます。

 

 

ア 法律を守ることに礼は不要、むしろするなという発想

イ 子どもが頭を下げていることが「学校による全体主義的教育の弊害」だと捉える発想

 

 

ア 法律を守ることに礼は不要、むしろするなという発想

 

「ファミレスで店員にありがとうというのはおかしい」という発想と通じるところがあると思っています(そう言うひとがいるんです)。

 

金払って食いに来ている、向こうは代金を受け取って必要なサービスを提供している、これでプラマイ0。なのになぜ「ありがとう」などといわねばなrないのか、と。

 

こういう考えの人は、「お礼は金銭と等価交換できるもの」、すなわち「お礼を言った分だけ損をする」という発想です。そこに「してくれた」「ありがとう」という「人とのコミュニケーション」という発想はありません。店員は店員であって人ではない。この延長線上に「金を払ってれば客だ、客に対して店員は傅(かしず)け」があります。

 

 

横断歩道では交通法規に従って車が止まっただけでこの時点で運転者と歩行者に上下関係はない。そのうえお礼を言ってしまうと損だ、子どもに損をさせるとは何事かという結論が導かれます。

 

 

儀礼や祭祀なんてものはそもそもが貨幣経済の損得勘定に見合わないものです。それを全て損得勘定してしまうのはとても残念な話です。

 

 

イ 子どもが頭を下げていることが「学校による全体主義的教育の弊害」と捉える発想

 

おそらく2~30年前の学校のイメージのまま反発しているのでしょうが、実際はお辞儀を強要されているわけではなく、子どもは純粋に「止まってくれてありがとう」ということでお辞儀してくれているんですよね。(それだけ、少し前まで「車が止まってくれる」ことが珍しかったことの裏返しでもあります)

 

 

確かに、我々が子どもの頃の学校の全体教育はひどいものでした。ひょっとするとさらにそのうえの世代の方々は、戦時中の学徒動員のような世界が透けて見えてしまっているのかもしれません。おおげさな気もしますが、まだ小さな子が「止まってもらったら礼をする物だ」という一種の「刷り込み」がなされているとすれば、その嫌悪感は分からないでもありません。

 

 

ただ前提条件として間違っているのは、学校では「止まってもらったらお辞儀したらお互い気持ちいいよね」という話をしているだけであって、あくまで強要されているとか何も考えずに動作として訓練されているというわけではないのです。明らかに行動の意味を自分で考えて、どうした方がいいのか判断した上で子どもたちはお辞儀をしている。となれば、「学校で無理矢理刷り込まれただけだろ」という論自体がそもそも間違っていることになります。

 

 

 

いずれにせよ、すぐ感情的になって投稿するのは登校する子たちにとってはよけいなお世話ってことです。

 

 

 

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