校則とか制服とかの
2021年09月14日
【あくまで私見、一般論として。聞かれて簡単に答えられる問題ではなかったので、ちゃんと書いてみました。】
校則を見なおすことと制服を変える・廃止するというのは似て非なる問題で、同じ線上で扱ってしまうとおかしな結論になってしまう。
校則(ここでは制服についての規定を除いて)については、時代に合っていない・明らかに人権を侵害している・意味がないなどの「なくすべき理由」があるものが共通認識としてあって、なくすことによって皆がメリットを得る、デメリットを受ける人がいない条項を精査して消していけば良いので、非常にわかり易いし定期的に改廃・変更していけば良い。
ところが制服そのものについては、そもそも上記のような「存在そのものが良くない校則」ではなくメリットとデメリットが存在することが誰にも簡単に想像がつく。「変更ありき」ではなく、そもそもなくしたら困る人がいるのではないかという確認をしてから議論を開始しなければならない。つまるところ、話をしている最中に「ひょっとして変更したら困る人がいるのではないか」という意見が出てくるようでは困るのである。変更そのものが目的になってると、こうなりがち。
通常、この種の「誰にとってもメリットデメリットがある」「なくしたり変更したりすると誰かにとってデメリットになる」議論については、最初に提案する者がデメリットを受ける側に対して代替案を示しつつ、それでも尚変更した方がいい理由を説明し、その意見について検討する、同意を得る、というプロセスを経なければいけない。「お金がなくて私服をしょっちゅう買えない」「めちゃくちゃ奇抜な私服を普段から着ている」というような、ある意味「マイノリティ」的な立ち位置についても最初の時点で考えられていなければいけないと言うこと。ちなみに、におい(香水)なんかも、私服を検討するなら考えなきゃいけない部類だね。
校則の見直しや制服の見直しは、過去何年にもわたって周期的に「ブーム」になってきた。昨今ではLGBTQを議論のとっかかりとして「誰でも選べる制服にしよう」というような方向性が全国的な流行り(これは流行と言っていいと思う)だが、実際に当事者が参加して制服のバリエーションを議論した話は聞かない。女子でもスラックスをはいていいというのはいいとして、男子のスカートであるとか、トイレの使用であるとかの繊細な部分については議論がなされていない場合がほとんどだ。
もちろん、議論の内容によってその深度は異なるわけで、「制服について議論したければトイレについてまず考えろ!」というわけではない。「LGBTQに配慮した制服にしました!」と言うだけではなく、「LGBTQに配慮することのスタートとして制服について検討します、ただトイレや更衣室についてはまだ議論がなされていません。これについてはこれからどういう方針で当たります」ということまで明らかにしないと、「あの子、男子なのにスカートはいてる、トイレは?更衣室は?」みたいな感じで興味の対象になるだけになってしまう。これはLGBTQの話だけではない。例えば「化粧をしたい」「タトゥーを入れたい」という要望には相変わらず「当然無理だろう」「それは別問題」というような「議論をしない」発想に支配されてそれが当たり前だと思われていそうだけど、そうした常識を疑っていくことが議論の本質であったはず。(例えばある年齢になったらタトゥーを入れるような文化を持った人種の子がきたらどうするのだろう?先天性で肌に傷があって隠したい子はどうするのだろう?これまで通り、当事者が勇気を出して先生にお願いしに行くしかないのだろうか?だとすれば、なぜ制服だけ自己申告なしに自由に選べるようにしたのだろう?)
こうして考えて見るとそもそも取り上げる材料1つ1つには、実は「なくさなければならないもの」と、「変えても良いもの」「変えない方がいいもの」などのグラデーションがあるはずで、それを区別してからゴール設定しないと、議論が途中でくちゃくちゃになる。
このような「生徒発の制服変更意見」は、「民主主義の勉強にちょうどいい」「多様性に配慮した」という聞き心地のいい言葉で肯定されるんだけど、実際には偏見や差別、マイノリティへの配慮がすっかり弾き飛ばされた状態で話をしているだけなんだよね。はっきり言えば、制服を変えたいというより「制服を変えたい運動をやりたい」だったりする。悪いことじゃあないけど、このあたりは「生徒に任せる」とかじゃなくてキチンとどういう議論の方向性で行くのか指導すべきだとは思う。個人的に。
・・・という、昭和の時代から散々繰り返されてきたブームの、何度目かの終焉のお話しでした。