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教科書がそのままテストに出る時代は終わった

Those days are coming to an end.

It might be something that should be spoken of in the past tense.

 

 

 

かつてのように、授業中に先生が言ったことをしっかり聞いていれば点数が取れる時代は終わりつつあります。中学校の定期テストが業者作成になりつつあるわけです。

 

 

 

そして、3学期制を廃止して2学期制、つまり前期後期にして、その上さらに中間テストも廃止する学校が増えてきました。すると定期テストは年に2回しかありません。

 

 

 

日常の宿題はもう何年も前から全くありません。ゼロです。副教材(ワーク)を配布しない学校もあります。配布してあっても解答つきなのでそもそもほとんどの子に取ってはただの「テスト前の写経」に過ぎなかったわけですが、それすらもなくなりつつあります。

 

 

 

テストの順位はおろか、偏差値すら出ない学校も増えてきました。

 

 

 

部活は減らすor廃止、自由参加。そして外部委託。結果、部によっては部活の時間は爆発的に増大する結果をもたらしました。

 

 

公立高入試も多くで定員割れもしくは定員ギリギリとなり、入試自体の意味がなくなりつつあります。

 

 

就活はともかくとして、この現状をどう見るか。

 

 

目に見える競争の場が高校に移ったが、そこまでに何をしてきたかでスタートラインが全然違う、と思います。

 

 

 

何もしないでもある程度の高校には行けてしまう。そして高校によっては大きな地盤沈下が起こっています。本来ならここにいるべきでない子が進学校に潜り込んできています。

 

 

 

一方で公立高の先生方はそうならないよう必死に生徒集めをし、入試を有名無実化しないよう奮闘されているように思います。

 

 

 

高校は、高校間で競争をしています。なぜだか分かりませんが。進学実績を積み上げるのに必死です。これは非常にありがたいことで、高校まで中学校化しないよう祈るばかりです。

 

 

 

大学入試はというと、国公立定員の2~3割が推薦です。高校3年間の通知表が大事になってきます。もちろん一般入試で勝負する道が7割以上あるわけですから、いずれにせよ必死に勉強するしかありません。

 

 

が、上で述べたとおり現実には高校入学時点で既に大きな差がついています。入学して最初の因数分解で躓いて後は全部分からん。そんな3年間を過ごす子が少なからずいると想像します。(開智塾にはそこまでひどい子はいないのでいいのですが)

 

 

 

大学の先生に聞くと、付け焼き刃の推薦組としっかり意志を持ってがんばってきた子の差は一目瞭然だそうです。そりゃそうです。

 

 

まずは時間をきっちり確保する習慣を身につけましょう。宿題もなくスマホを与えられ、「お子さま」の環境は天国です。だからこそ大きな差がつきます。

 

 

 

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I still haven’t found what I am looking for.

 

 

 

「行きたい大学や学部は特にない」という子が増えてきた一方、その反動かここ数年「これをやりたい」というはっきりと意志を持った子も増えてきた印象があります。(それは開智塾だから、なのかもしれませんが)

 

 

 

このブログでも過去に何度か書きましたが、好きな事を大学では勉強することが出来ます。趣味と勉強を切りはなすのもいいですが、少なくとも大学においては好きな事を勉強の対象にすることが出来ます。

 

 

 

たとえばアニメが好きだ。OKです。残念ながらちょっと絵がうまい程度ではアニメーターになるのは難しいでしょう。でも大学で研究対象にすることは出来ます。アイドルもアニメも、社会学や経済学で十分「カルチャー」として研究対象になります。むしろ世界中に日本のポップカルチャーの研究者がいるくらいです。

 

 

 

逆に、全然違う分野からアッと驚く成功をもたらした人もいます。

 

将棋のAIを爆発的に発展させた開発者は理学部化学系専攻の人でした。

 

 

 

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やらなければならない事が減った、自分の時間が増えた。その時間をどう使うかは自分に委ねられている。いい時代だと思います。

 

 

ただ、忘れないでいて欲しいのは、どんな学問分野であれまずは基本的な勉強は必ず必要ということです。そしてその多くはまず理解し、覚えることから始まるということです。

 

 

英語が読み書き出来なければ論文も読めませんし、微分積分が出来なければ経済の勉強も出来ないわけです。歴史を知らなければ他国はおろか自国のカルチャーすら分からないし、古文(をすらすらとまでは行かなくとも)をある程度知っていなければ日本という国がどういう国なのかも分からないでしょう。そもそも言葉を知らなければAIはおろか、google検索すらまともに使えないでしょう。

 

 

 

カンニング竹山さんが「古文なんて役に立たない」と発言して話題になりましたが、役に立たせるかどうかは自分次第です。そんなこと言い出したら美術だって音楽だって、全てなくても生きていけます。

 

 

 

でも、生きて行くにはそれらが必要なんです。大学入試は受験勉強のゴールではありますが、同時に人生のスタートでもあります。そこから先どう生きていくかに無駄な物なんて一つもないでしょう。仕事で活かすか趣味で活かすかはその人次第ですが、教養は人生を豊かにします。多分。

 

 

 

 

それでもなお、古文漢文が嫌いな人もいるでしょう。きらいでも必要だからやる。それだって一つの経験です。「古文なんて無駄」発言が問題となった核心は、「知りもしないで不要だと切り捨てる」態度そのものではないでしょうか。

 

 

 

勉強は、ある意味「諦め」も肝心です。それは「諦めてやらない」ではなく、「諦めて腹をくくってやる」意味での「諦め」です。その苦痛を最も和らげる最適な方法は習慣化だと思います。

 

 

 

毎日自習室に来る。ただそれだけで勉強時間が増える。家にいたらダラダラするけど、自習室に来たら何かするでしょう。だってみんなやってるもん。結構なことじゃないですか。諦めて自習室に来る。これって実はすごく前向きなことです。お父さんお母さん、大変ですがよろしくお願いします。

 

 

 

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