教育評論家の言うことを取り入れる際に気をつけて欲しいこと
2020年01月31日
世の中、様々な教育評論家の先生方がいらっしゃいます。
参考になる人もそうでない人もいますが、基本的にそう間違った事は言っていないと思います。
これは塾にも言えることですが、おそらく「教育」という世界、いやもっと狭く「点数を取る」という世界についていろいろな人がいろいろな方針を語りますが、正解もなければ間違いもないと思います。
開智塾でやっていることが唯一無二の正解だとは思いません。
そこにあるのは、「うちの子に合うのか?」だけです。そしてそれを判断する要素は非常に多岐にわたります。ちょっと考えただけでも、
この人の話(そして塾もそうですが)は
- どのレベルを対象にしているのか?(今の点数、過去の点数、目指す大学、高校、、、)
- どうなることを目指しているのか?(国立大?工業高校?・・・)
- どういった環境を想定しているのか?(大都市?農村?核家族?長子?末っ子?男の子?学校が荒れている?・・・)
と、2秒考えるだけでもたくさんの要素が飛び出てきます。
教育評論家の話を聞くとき全ての条件が自分の子どもに合致することはなく、なにを参考にするか、どこを差し引いて考えるか、親が冷静に考えて取り入れていく必要があります。東大医学部に何人も入れた(入れたというか入ったのはお子さんだと思うのですが・・・)お母さんの話を真に受けて全部実行する人はさすがにいないと思いますが、テレビででてくるような「個性的で素晴らしい先生」のやり方を地方の公立小中学校で実践したってうまく行かないわけです。(大抵都会の優秀な私立だったり優秀な国立付属だったりしますので、そもそもが岐阜の田舎の公立で成り立つ話ではないわけです)
そうしたことを踏まえると、「うちの先生もああだったらいいのに」というのは全くお門違いで、僕は岐阜県の先生方はとても優秀だし努力されているし、素晴らしいと思います(塾の方針も、学校の授業ありきでその上を行くように配慮しています)。開智塾の保護者さまのような比較的ちゃんとしてらっしゃる方ばかりのなかでもやはりモン○ターな方はいらっしゃった(過去形)くらいですから、学校なんていったらもう大変なわけです。そんな中で授業やら体育祭やら・・・なんて言い出したら大変ですよね。ですから、学校の先生になにを求めるのかはキチンと考えた方がいいと思います。公教育はたしかに一人一人の個性を伸ばす方に舵を切っていますが、一方で多様化する児童生徒に対してコスト減で対応しなければならない局面に立たされています。個人が特別扱いをお願いするにはなかなか難しい状況なわけです。
蛇足ですが、学校がもう少し余裕を持つには個人的には部活全廃、やりたい子はクラブチームでやればいいと思います。日本の部活制度は世界でみても独特です。それが国民の健康の底上げをになっていた時代はいいのですが、今となっては・・・。
欧米諸国は、クラブチームなどの地域組織でやるのが当たり前な地域が多いのですが(「余暇」のレクリエーション発祥だからですね)、日本で言う「クラブチーム」とは違って本格的なスポーツチームから、フィットネスクラブみたいなものまであります。ちょっとした体力作りや、肥満解消、家族でのアクティビティを目的とした地域クラブなどなど・・・です。もしキチンと稼働するなら、学校の体育の時間をなくして単位を振り替えてもいいわけです。学校の体育の先生が地域チームへ専門家としての見地を持って参加すれば、今の学校体育よりはよほどいいと思うのですが。ちなみにこれでも、岐阜県の部活時間は全国最下位です。
もう一つ。教育評論家については、誰か「この人」と決めたらできるだけ他の人に浮気しないことです。いろいろな人のいいとこ取りをしたいという気持ちは分かりますが、ある程度どの人も基本的な考え方、思想みたいな物は一貫しているはずです。ですので、「この人の意見は参考になることが多いなぁ」という人が見つかったら、その人を軸にしていくのが良いと思います。そもそもが、「全てその人の言うとおりにするわけではない」のが前提なので、挙げ句にいろんな人の意見をごちゃ混ぜにすると考え方がぶつかってしまいます。ただし、誰しもみんな「売れる」ことが前提となっていることはお忘れなく。そりゃね、「一人一人の能力をよく見て伸ばしてあげる教育が必要です」なんて言うのは簡単なんですが、それは大変な事です。コストだけの問題ではなく。
もう少し掘り下げてみます。
「教育」というジャンルは、その言葉のなかにたくさんの物を含みます。学校、進学、偏差値、家庭学習、いじめ、などなど。
それらが一括して「教育」という言葉でくくられますので、「教育評論家」といっても、どのジャンルに強い人なのかを見極める必要があります。本来学校の問題が専門の人でも、求められれば「やっぱりリビング学習がいいんですよ」なんて言っちゃったりします。そんなの、人によるじゃないですか。正解なんてありません。
本来学習の仕方というのは、リビングだろうが部屋だろうが図書館だろうが、自分に適切なところを選べばいいわけです。ところが、日本が豊かになるにつれ、子どもが自分の部屋を持つことが当たり前になりました。そこへ持ってきてゆとり教育、勉強ばっかが人生じゃないよという思想とともに、「勉強をやっていただくためにはどうしたらいいか」という次元の議論になっているのが現状です。そうなると、「部屋に篭もって遊んでいるくらいならリビングでやった方がまだまし」となるわけです。東大生がみんなリビングで勉強しているかといったらそうではないですよね。開智塾でみていても、勉強が出来る子ほど自習室に来ています。みんな判で押したように「家じゃ集中出来ないから」って言います。このレベルになるとリビングなんて無理無駄邪魔なんです。「リビング学習がいいですよ」というフレーズの、なんとも使いようがない感じ、分かっていただけますでしょうか。はっきり言えば、自分に合わせて考えない限りまぁ無意味なわけです。
そんなわけで、「これはうちの子にあっているのかしら?」というのは、よくよく冷静に考えて、押しつけるのではなく自分ち用にアレンジして使うことをお薦めします。