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震災遺構(1)

ひっそりとアップしてます。

この記事は興味のある方だけご覧ください。

ご遺体などが写るわけではもちろんありませんが、かなり悲惨な震災の状況を伝える写真も(2)以降で出てきます。

 

旅行記のような体をとっているは(1)のみで、本題の震災遺構の写真は(2)以降の予定です。

遺構の写真、案内文などをじっくり見ていただければと思います。

 

 

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セントレアから仙台へのフライトは1時間15分。快晴の空を抜けると、眼下に富士山がくっきりと姿を現します。

 

 

ゴールデンウィーク中盤の平日、塾のお休みを利用して母と仙台へ向かいました。

 

大学卒業後、会社員時代に妻と一度だけ訪れたきりの仙台です。しばらく足が遠のいるなぁと思っているうち、2011年に東日本大震災が発生。そしてそれからさらに14年。

 

僕にとって「仙台を訪れる」ことには、単なる旅行と言ってはいけないような、あるいはなにか意味を持たせなければならない義務感のようなものがつきまとっています。もちろんそんなことはないのは分かっているのだけれど、それをきちんと考えることがなぜだかとても面倒なことに思え、結局ずるずると忙しさを理由に今に至ってしまっていたのでした。

 

今回は76歳になる母との二人旅です。父が25年前、まだ50代の若さで急逝。僕はそのときすでに社会人だったのですが、大学入学以来ずっと岐阜を離れており、長いこと母を一人暮らしで放置していたことになります。最近ようやく、それが気の毒に思えるようになってきました。思えばこれが最後の親孝行になるかもしれません。旅行中、母は何度も「お父さんは全然旅行とか連れてってくれんかったでねぇ」と恨み言をいいつつ、カバンの中から父の遺影見せてくれました。「写真、連れてきたった」と。

 

そんなわけで、僕にとって仙台旅行と親孝行はどちらも「面倒だけどやらなきゃいけないこと」に常にランクインし続けており、ちょっとした心の中の足かせのようになっていました。

 

この、ある種の面倒さを一度で終わらせようという邪(よこしま)な心がなかったといえば嘘になります。

 

ともあれ、旅がスタートしました。

 

 

仙台に住んだのは大学時代のたった4年間でしたが、例えば教育実習先が仙台市内の中学校だったり、南は亘理町、北は石巻市まで家庭教師のアルバイトに行ったり、とにかく多くの人と出会い、多くの体験をしました。

 

googlemapより

 

 

仙台空港。さすが楽天お膝元。

楽天の選手達が出迎えてくれます。

 

 

 

 

 

仙台空港は、仙台市と南に隣接する名取市の、海岸すぐ近くにあります。

空港に津波が浸入、多数の機体が流される映像をご記憶の方も多いと思います。

 

 

 

もちろん14年経った今、津波の残骸などはありません。

 

 

というより、空港周辺には何もありませんでした。

仙台空港に来たのはそれこそ20年ぶりくらいですが、こんなに、何もなかったっけ・・・。

 

 

 

空港すぐ近くの日和山公園。名取市の慰霊碑的な役割を持ちます。

GoogleMapリンク

https://maps.app.goo.gl/7mkKUYvDFZoU9wxi8

山と言っても高さ数メートル、万一次の津波が来たときに回避できる程度の高さの小山です。

 

 

中腹に到達点の表記。無機質な看板は、風景と同化することを、記憶が風化することを拒んでいるかのようです。

 

日和山から北を見下ろす。更地に駐車場、そして真新しい墓地。

 

震災遺構は海の近くに多いのですが、どの遺構に行っても、すぐ隣には艶々と真新しい黒御影石が並びます。墓地です。

 

墓石に刻まれる享年は数ヶ月から100歳付近まで、年齢性別を問わず。

 

海岸の近くは多くの人が亡くなった場所であり、そして次の津波を考えると住みづらい場所。それは言い換えると墓地に最適な場所、ということかもしれません。

 

 

海岸沿い一帯に言えることですが、海岸線から少し離れた高台には震災復興住宅が建ち並びます。仮設ではなく永続的に住めるようになっています。

一戸建てタイプもあればマンションタイプもあるようでした。真新しい家屋が規則正しく建ち並び、新しい生活が確かにそこにあります。

 

 

 

 

さて、今回の旅では久しぶりに大学に行ってみるのも目的の一つです。

 

途中、かつて住んでいたアパートもチラ見しながら。

(今は他人の家なので外から写真だけ)

 

 

現地は空港近くでレンタカーを借りて移動していましたが、大学は一般車禁止(学生対策)。適当に路駐とか、まぁなんとかなるんでしょうが、そこは大人なのでルールを守って「どうすっぺや」と思いながら地図を見ていると

 

 

なんと!!

 

 

マジか。

 

地下鉄駅ができている。こんなんなかったぞ・・・

 

 

とりあえず地下鉄に乗ってみたいですし、国際センターの駐車場に車を置いて、1区間地下鉄で川内(かわうち)までいきます。250円だったかな。川内には東北大の教養部(1~2年生が主に通う場所)があります。

 

 

 

地下鉄の長いエスカレーターを出るとそこは

 

 

そこは・・・

 

 

 

 

 

 

知らない大学だった。

こんなんなかった。なにこのオサレ感。

 

こんなんなかった・・・なにこのオサレ感。

 

こんなんなかっt・・・あった!!

 

 

変わってねぇぇぇぇぇ!!

 

 

なんと30年近く、いや多分もっと前から、ここだけ変わらずそのままの姿のサークル棟が現存しています。

 

みんなで歌う会、鉄研、そして自治会・・・そのまま。東北大自治会は当時(といっても90年代後半)過激派の拠点として、大学内外でイロイロな活動をしていた組織。高校の生徒会とは訳が違う、武闘派(国家権力用語的な意味で)集団でした。大学当局との武力闘争で建物を残したのかな・・・。

 

 

教養部。平日なのでたくさん学生がいました。5月に入ってもちゃんと授業出てるなんて今どきの学生は偉いなぁ。あと、とても外国人が多かったです。世界中から留学に来てるんやね。

 

大学内の様子は、(熱心に通っていなかったことも相まって)普段思い出そうとしても全く思い出せず、完全に忘れた景色だと思っていました。でも違いました。ここに立ったとき、まるでコンクリート壁と土の地面の境にできた小さな地蜘蛛の巣をうまく取り出せたような、土の奥底に眠る確かな生命をずるっと地上に引っ張りだすような、確かにここにいたんだな、と。そんな記憶の取り出し方を初めて体験しました。

 

 

 

旧川内第一食堂。〇〇カフェみたいなオサレな名前になってましたが、建物、内装、食堂のメニューやシステムがほぼ何も変わっていないことを看破。もう一つの「カフェ〇〇」なんて「(旧貧食)」ってそのまま書いてあるし。そこは貧民食堂じゃなくてちゃんと川内第二食堂って書いてあげたほうが・・・とおもったけど貧食の方が伝わるか。当時200円かそこらでカレーを食べられる食堂でした。まさに貧民食堂。

 

 

最初の仙台メシはカフェなんとか(旧一食)のなんとか丼(見ても思い出せない)&味噌汁&きんぴらでした!といってもきんぴらは、母が勝手にとって「食べやあ」と渡してきたものです。隙あらば野菜類を食べさせようとするところはやっぱり変わってないですね。「いらんのやけど」って言いながらも食べました。

で、これで450円くらい。安いですよね。朝7時から夜7時半くらいまで食べられます。

一般の方も公式にOKなんですが、現金決済のみですので注意。

 

 

コンピュータ室(的な?)

 

数百台のキーボードとモニターが並んでいます。教養部の情報の授業で使う部屋だと思うのですが、この写真、建物の中には入っていません。完全に建物の外からです。ドアも開いていて雨とか降ったらどうすんだこれ。

 

 

大学をあとにして仙台駅へ。

 

 

いったんホテルに荷物を置いて徒歩で行ったのですが、外観を撮り忘れてしまいました(最終日に撮りましたが)。仙台と言えば萩の月。右の謎のキャラは知りません。多分仙台なんとかくんとかそんな感じ。

 

改札。

 

岐阜のみなさんは多分見慣れない行き先表示だらけです。

 

こういう所に旅情をかき立てられたりしません?

 

 

 

政宗像。

 

かつて改札口の真正面にあったはずの政宗像は、観光客が多く来る飲食ゾーンの奥地、駅の端っこに追いやられガラスの向こうにいました。「わしのおかげで観光客が仙台駅のお店にやってくるんじゃ」って政宗が言ってる。と思わないとやってらんないくらい気の毒な場所です。絶対戻した方が良いと思う。

 

 

政宗像は、仙台駅(の建物内端っこの方)と、市内中心部の勾当台(こうとうだい)公園、青葉城趾の3カ所だそうです。有名なのは青葉城趾です。大きいし。

仙台城跡 (伊達政宗公騎馬像) – せんだい・宮城フィルムコミッション

でも今回は青葉城趾は行きませんでした。面倒だし日本史苦手だったし。次来ることがあっても多分行かないです。ごめん政宗。

 

 

 

(2)へ続く。ようやく本題です。ここから先は震災遺構の写真が中心になる予定です。

震災遺構(2) | 開智塾丨各務原・関・美濃・美濃加茂・富加の進学塾