「死」のモザイク
2026年09月01日
今回の内容はマジで興味がある人以外は全く意味不明です。
「哲学・社会学系の人ってこんなこと考えとるんや~」って内容です。
って番組があります。
若干「有隣堂しか知らない世界」のテイストがなきにしもあらずですが、「さらば青春の光」の二人が話題の本の著者を呼んで話す、とまぁそんな番組です。
番組の最後に東袋と森田が本の帯コメントを考えるんですが、大落ちの森田のコメントが面白くて結構好きです。
で、見ていたら
(いずれもさらばのこの本ダレが書いとんねん! | TVO テレビ大阪より)
こんな画面が出てきました。「死」の一文字にモザイクがかかっているのです。
勘のいい人はyoutube用じゃない?と思われたと思いますが、ネットに上げる前にモザイクをかければいいだけの話です。まぁ面倒だから最初からそうしたのかもしれませんが。
どっちにしろ、youtubeのルールがテレビのルールを食っているとも言えます。
もはやテレビの自主規制だけではなく、ネットの自主規制がテレビにも侵食してきているのでは?
これ、表現規制だけじゃなく番組そのものもネット動画がテレビを食ってると考えると、かなり前からの流れです。
よくある「バズったネット動画」をテレビで垂れ流す系の番組、例えばテレビ東京のどうぶつピースは2016年開始で、2017年には視聴者の投稿動画を勝ち抜き形式で紹介する企画を普通にやっています。TBSも2017年に投稿動画や海外映像を大量に使った動物番組を放送しています。つまりテレビがネット的な短尺動画を束ねて番組にする形式は、遅くとも2016~2017年には成立していたと言ってよさそうです。
もう少し深掘りすると、
2010年代前半までは、テレビがネット動画を拾う段階です。
YouTubeやニコニコ動画、SNSに面白い映像がある。それをテレビが見つけて紹介する。
この時点では文化的な主従関係はまだテレビ側です。
ネットに素材がある→テレビ局が選ぶ→スタジオで芸能人が見る→ワイプとテロップとナレーションを付ける→テレビ番組として完成させる。
つまり、ネットは素材倉庫だったわけです。
このタイプの「投稿ビデオ番組」そのものならYouTube以前からあります。素人が撮影した珍しい映像をテレビが編集して見せる構造自体は古い。
ところが2015~2019年頃から、少し性質が変わってきます。
ネット動画をテレビが利用するだけではなく、ネット動画の見方そのものをテレビが取り入れ始める。
短い。展開が早い。テロップが多い。前置きを減らす。連続して見せる。ランキング化する。リアクションを挟む。
いわばYouTube的な編集文法のテレビへの流入ですね。
そして経済的にも2019年はかなり象徴的です。
日本では2019年、インターネット広告費が初めてテレビメディア広告費を上回りました。電通自身が広告業界の転換点と表現しています。ネット広告費は約2兆1048億円、テレビメディア広告費は約1兆8612億円でした。
そして決定的なのが2020~2022年でしょう。コロナです。
2020年にはネット動画視聴が一気に伸び、調査によっては外出自粛中に増えた行動として無料動画視聴がテレビ番組視聴を上回っています。2021年には20代でテレビとネット動画の視聴時間がほぼ拮抗しています。
同時期にNetflixなどのVOD(Video On Demand=ユーザーが自分で動画を選んで試聴する形式)も急拡大します。
日本の動画配信市場は2019年から2020年にかけて大きく伸び、2020年には前年比33.1%増の3894億円。Netflixは国内のこの市場で2年連続首位でした。
ここで起きたのは、視聴者にとってテレビとネットという区別そのものが薄れたことです。
Netflixをテレビで見る。
YouTubeをテレビで見る。
TVerをテレビで見る。
地上波をTVerでスマホから見る。
2020年にはNHKや日本テレビもネット再配信を本格化し、逆にテレビ画面でオンライン動画を見る行動も増えているとNielsenが指摘しています。
だから、
テレビ=機械
放送=電波
ネット動画=スマホ
という昔の分類が壊れた。
テレビという箱の中でYouTubeを見る時代になった以上、文化的には何がテレビなのか分からなくなってくるんですよね。
特に欧米での時系列ですが、2021~2023年頃に、もう一段違うことが起こります。
ここが死のモザイクにつながります。
ネットのコンテンツだけではなく、ネットの規範が外へ出始める。
TikTokなどで、死、自殺、性、暴力、特定の差別語などを直接書かず、別の文字、綴り、絵文字などに置き換えるalgospeak(アルゴリズム用の言語)が広がります。
少なくとも2021年頃には現象としてかなり認識されるようになっており、2022年には研究者がこれについての論文を出すようになっていきます。2023年の研究では、投稿者が実際の規約だけでなく、アルゴリズムにこう判断されるだろうという予測に基づいて自分から表現を変更していることが確認されています。
こうした時代の流れの上で、今回考えたいのは、そして言語学(婉曲語法の更新)、哲学(規律の内面化)、メディアと表現の非対称性です。
この「死」のモザイク、ネット動画でよく使われる技法なので、多分今の子どもたちはなんの違和感も感じないと思いますが、我々世代にはやっぱり違和感・・・感じませんか?
死という言葉は、もちろん軽い言葉ではありません。しかし、日本語として特殊な言葉でもありません。
死亡、死去、死因、死刑、死者、死生観。
報道でも教育でも文学でも哲学でも、普通に使わなければならない言葉です。むしろ、さまざまな分野で横断的に使われる人類共通の大きなテーマです。
それなのに、文字としての死を画面に出すこと自体が、何か危険な行為であるかのように扱われる。なんなんだろう?この現象は。
そしてもう一つの違和感。
死にモザイクがかかる一方で、血しぶきが飛び、人間の身体が切断され、首が飛ぶようなアニメ作品を、小学生を含む多くの子どもたちが普通に見ています。
変だよね?と子どもに聞いたら、
深夜アニメだから。
年齢区分があるから。
保護者の判断だから。
フィクションだから。
的な反応がありました。(詳しいですね!すごい。)
確かに、そういう説明は一応できます。
しかし、死という一文字にはモザイクをかけながら、視覚的にははるかに強烈な死や暴力の描写が社会的に広く受容されているという状況は、やはりどこか奇妙ですよね。
なぜこんなことになっているのでしょう。
単なる表現規制の問題ではなく、現代社会において、言葉がどのように婉曲化され、その婉曲表現がどのように新しい日常語となり、さらにその背後にある規範まで変えていくのかという問題として考えた方が分かりやすいのかもしれません。
そもそも、なぜ婉曲語(柔らかく・遠回しに言い換える表現)が使われるのでしょう?(モザイクも一つの婉曲表現です)
そして、婉曲語はなぜ更新され続けるのでしょう。
言語には昔から婉曲表現があります。
直接言うには刺激が強いもの、不快感を与えやすいもの、社会的にタブー視されるものを、少し柔らかい表現へ置き換えるものです。
例えば、
死んだ、ではなく、亡くなった。
便所、ではなく、お手洗。
解雇、ではなく、人員整理。
このように、言い換えそのものは、別に現代特有の現象ではありません。
言語学では、こうした婉曲表現が、さらに時間とともに効力を失い、新たな婉曲表現へ置き換わっていく循環が知られています。
ちょっと難しいですね。
ある対象Aが社会的に強い忌避感情を伴っているとします。
まずAを直接表す言葉が嫌われる。
そこで、それを少し柔らかく表現するBという新しい言葉が作られる。
しかしBが広く使われるようになると、人々はBから結局Aそのものを直接連想するようになります。
するとBもまた刺激的な言葉になる。
その結果、さらに新しいCが必要になります。
つまり、
直接表現(死ぬ)
↓
婉曲表現(永眠)
↓
婉曲表現の一般化
↓
元の対象との結びつきが強化(永眠=死ぬ)
↓
婉曲性の消失
↓
新たな婉曲表現(旅立つ)
という循環が起こるわけです。
婉曲語は、婉曲に成功すればするほど婉曲語ではなくなる。そのものズバリの言葉の代表になる。
ここが重要です。
言葉そのものが汚れているわけではありません。
社会が忌避している対象に対する感情が、その対象を示す新しい言葉へ次々と移動していくわけですね。
他の事例です。
この構造が非常に分かりやすく見える例の一つが、売春、援助交際、援交、パパ活といった言葉の変化です。
もちろん、これらは法律上も社会的実態としても完全に同じ概念ではありません。パパ活には食事だけの場合もあれば、継続的な金銭援助を伴う関係もあり、性的関係がある場合もない場合もあります。
したがって、売春とパパ活を同一視するのは不正確です。
しかし、言葉の変化として見るとかなり興味深いです。単に婉曲的に置き換わっていくだけではなく、意味内容も少しずつ変化していきます。
売春という言葉は極めて直接的です。金銭と性という問題が、ほぼそのまま前面に出ています。直球で法に触れます。
↓
これが援助交際になると、意味の焦点が変わります。援助。交際。
よく考えると、どちらもそれ自体は性的行為を直接示す言葉ではありませんし、違法性もありません。が、実態として売買春を指すことはみんな分かっているわけです。
↓
さらに援交と略されると、元の言葉の具体性が薄くなります。若干「隠語」っぽくなり、「知ってる人には分かる」アンダーグラウンドな匂いを帯びます。
↓
でも、それも一般的な語として認知されるようになります。もはや売春という言葉よりも援交という言葉の方が一般的ですし、ネット検索だと「円光」という変換語すら共通言語化していたりします。
↓
そしてパパ活になると、さらに別の意味領域へ移ります。活動という言葉が付くことによって、就活、婚活、推し活のような現代的な活動語彙の一種として聞こえるわけです。並列に見る人はいないと思いますが・・・。
では、ここで起きた変化の正体はなんでしょう?
単に言葉が柔らかくなっただけではありません。
名称が変わることで、行為そのものを見るフレームが変わっています。
売春という言葉を使えば、社会問題、違法性、搾取、性の商品化といった問題が強く意識されます。つまり「法律」「社会問題」といった枠組み(フレーム)で見る用語だと認識されます。
ところが、パパ活という言葉を使えば、人間関係、経済的支援、副業、恋愛、マッチングといった別の意味領域が混在してきます。「法律」「社会問題」だけの枠組み=フレームから外れた、別の枠組みの視点が成立するようになるわけです。
こうなると、「援助交際」という言葉が「売春」という行為を隠し誤魔化すだけではなく、行為をどのカテゴリーに分類するのかまで変えてしまうということが起こります。
これが婉曲表現の持つ大きな力なのでしょう。
「JK」という単語も、少し違った意味で興味深いです。
女子高校生は本来、単なる属性名、つまり高校に通う女子生徒を示しているだけです。
しかし、特定の文化的、性的、商業的文脈の中で繰り返し使われることによって、言葉自体にさまざまな含意が付着していきます。
そこで女子校生という表記が使われたり(一説にAVでは女子高生だと明らかに未成年だが、女子「校」生なら高校生とは言ってないからOKという業界規範から広まった説があります)、さらにJKという略語が広がったりします。
では、女子高生がJKになる過程では何が起きているのでしょう。
ここでは複数の現象が同時に起きています。
まず意味のずらし
↓
次に略語化
↓
さらにアルファベットによる記号化
という段階を踏んでいます。
JKという二文字を見ると、女子高生という日本語をそのまま見るより、いったん抽象化された記号として認識されます。つまり、対象が一度抽象的になるんですね。
ところがJKが広く使われるようになると、今度はJKそのものが普通の言葉になります。
JK文化。JKファッション。
こうなると、もはや単なる女子高生の略語ではありません。一つの独立した文化カテゴリーとして機能しています。最初は直接的な表現を避けるための略語だったものが、やがて元の言葉以上に強い意味を持つようになります。これも婉曲表現の興味深いところですね。
隠すために作られた言葉が、最終的には一つの巨大なラベルになるわけです。
では、昔の婉曲語と今の婉曲語は何が違うのでしょう。
ここまでは、昔から存在する言語変化の延長として説明できます。
しかし現代には、以前には存在しなかった非常に大きな要素が加わりました。
コンピューターやネットの巨大プラットフォームにおけるアルゴリズムです。
どういうことか。
かつては婉曲語が生まれる主な理由は、礼儀、宗教、社会的タブー、相手への配慮、公共空間での節度
といったものでした。
しかし現在はそこに、
「検索に引っかからる(ない)ため」
「収益化を止められないため」
「投稿を削除されないため」
「おすすめ表示から外されないため」
「アカウント停止(いわゆる垢バン)を避けるため」
という理由が加わっています。ここで性質が大きく変わります。
人間に対して意味を柔らかくするためではなく、機械に意味を理解されないために言葉を変えるようになるわけです。
死ぬを4ぬと書く。
死を伏字にする。
殺すを56すと書く。
自殺という言葉を自死に置き換える。
これ、実は英語圏でも同じことが起こっていて、die(死ぬ)やsuicide(自殺)の代わりにunaliveのような表現が広く使われるようになりました。un(否定を表す接頭辞)+alive(生きる)=生きない=死ぬ、というわけです。
人間には何を意味しているか一目瞭然です。
しかし、youtubeやXの自動判定システムには直接的な危険語として認識されにくい。
つまり、人間には伝えるが、機械には隠す、という特殊な言語行動が成立しているわけです。
これは従来の婉曲語とはかなり違います。
では、アルゴリズムを欺くための言葉が、そのまま隠語で終わるのでしょうか。
おそらく、そうではありません。
最初は単なる規制回避だった言葉が、大量に使われることで普通の言葉になっていきます。
死という語を避けて別の言葉を使う。
↓
その言葉を大量の人が使う。
↓
アルゴリズム検閲の対象になる。
すると、最初はアルゴリズム回避のために作られた人工的な表現が、日常の社会規範へ変化していきます。
つまり、
機械への対策
↓
発信者の習慣
↓
利用者の模倣
↓
社会的慣習
↓
新しい言語規範
という変化が起きるわけです。ここはかなり重要だと思います。
YouTubeやX、TikTokの規約は、現実世界の法律とは違います。「死にます」と言っても、違法ではありません。しかし、動画削除の対象になります。
そして話は最初に戻りますが、このネット上の規制がそのままテレビ局の表現を禁止しているわけではありません。なのに、インターネット上で広がった表現作法が、次第にテレビや広告や日常会話にまで流入してきます。
結果として、死という文字をそのまま表示すること自体が刺激的であるような感覚が形成される。
つまり、プラットフォーム企業が設定した広告やコンテンツ管理上の基準が、回り回って社会全体の言語感覚を変えてしまうわけです。
では、これは検閲なのでしょうか。ここが厄介です。
誰か一人の権力者が禁止しているわけではありません。政府が死という語を禁止したわけではない。法律で使用を禁じられたわけでもない。テレビ局に対して誰かが一律にモザイクを要求しているわけでもありません。
それでも人々は自分から、自ら表現を変えます。
炎上しないため。
広告主に嫌われないため。
アルゴリズムに嫌われないため。
配慮がない人間と思われないため。
アカウントを守るため。
誰かに命令される前に、自分で自分を修正するわけです。これを哲学(主にフーコー)では「規律の内面化」と言います。押しつけられるものと思われがちなルール=規律を、勝手に自分の内面で作り上げて、それに従って行動するようになるのです。(興味ある方は「パノプティコン」を検索してみてください。規律の内面化の代表例としてでてきます)
この構造はかなり現代的です。
露骨な検閲なら、禁止している主体が見えます。だから、反対したり文句を言ったりすることができます。
しかし現代のプラットフォーム社会では、明確な禁止命令が存在しなくても、人々が禁止を予測して先回りします。よくよく考えたら、本当にXで「死」と書いたら垢バンされるのか?youtubeで「死ぬのは最後の手段ですよ」といったら垢バンされるのか、実はみんなよく分かっていない。分かっていないから自分から避けていく。
その結果として、表現の範囲が少しずつ狭くなっていく。まさに、人々自身が規範を内面化し、自分の行動を修正していく現象が起こっています。監視されているから従うのではなく、監視される可能性を想定して自分から振る舞いを変えるわけです。
その意味では、アルゴリズムは単なる技術ではありません。人間の行動を形成する規範装置にもなっているのでしょう。
これが「死のモザイク」の正体です。
では、もう一つの違和感、死ねという言葉には過敏なのに、首が飛ぶ映像には比較的寛容なのはなぜでしょう。
日常会話で、冗談半分に「死ね笑」と言っただけでも、かなり強く引かれることがあります。
これはある意味では当然でもあります。死ねは文法上、相手に死を命じる直接的な命令表現だからです。
昔よりも対人的な暴力表現に敏感になったこと自体を、一概に悪いとは言えません。言葉というのは時代とともに変わっていくものです。昔はこうだったものが今は駄目になった、これは言葉に限らずどんな分野でも起こることです。
しかし一方では、フィクションの中で極めて強い暴力描写が大量に消費されています。
血が噴き出す。
人体が切断される。
首が飛ぶ。
人が大量に殺される。
これらは「作品」というパッケージの中に入れば広く許容されます。
深夜放送だから。年齢区分(R12指定とか)があるから。フィクションだから。人気作品だから。保護者の判断で、と断りを入れたから。
こうした制度的なラベルが付くことで、暴力表現は安全な文化商品として処理されます。
でも一方で、死という一文字だけが危険な記号になる。
ここには明らかな非対称性があります。
どうやら現代社会は、表現の内容そのもの(つまり、人が死ぬというのはどういうことか)よりも、それがどのラベルの下に置かれているか(youtubeなのかテレビ番組なのか、アニメ映画なのか)によって安全性を判断する傾向を強めているように見えます。
作品内の殺人なら娯楽。
日常会話の死ねなら暴言。
報道の死なら伏字。
ゲームの大量殺戮ならフィクション。
広告内の死なら避けるべき語。
実際の刺激の強さと、規制の強さが一致していないわけです。
ちなみに、たとえば「深夜放送だから大丈夫」という説明は、今でも本当に意味があるのでしょうか。
昔なら深夜に放送すれば、それ自体が一種のアクセス制御でした。つまり、小学生は深夜まで起きていない、したがって放送時間帯であれば「子ども向けではない」が物理的に成立した。
しかし今は違います。
録画がある。
サブスクがある。
スマホがある。
動画配信がある。
SNSの切り抜きがある。
友人間での共有もある。
もはや、作品が午前二時にテレビ放送されたかどうかは、子どもがその作品を見るかどうかと、昔ほど強く結びついていません。つまり深夜枠という制度は残っていますが、その実効性はかなり低下しています。
年齢区分についても同じでしょう。
制度として存在していても、実際の視聴環境と一致していなければ、社会的には一種の形式的なコーティング(覆い隠し)に近くなります。
ここでも、実態よりラベルが先に立っています。
では、別角度で。
時代の変遷とともに言葉が柔らかくなれば、社会そのものも優しくなるのでしょうか。
当然のことながら、必ずしもそうではありません。
死という言葉を伏字にしても、人は死にます。
売春を別の言葉に言い換えても、搾取や貧困の問題が消えるわけではありません。
いじめを生徒間トラブルと言い換えても、被害が軽くなるわけではない。
解雇を人員最適化と言っても、職を失う人の生活が変わるわけではありません。
やはり、言葉が柔らかくなることと、現実が穏当になることは全く別の問題です。
むしろ、言葉を柔らかくすることで現実の深刻さが見えにくくなる場合さえあるし、むしろそうしているフシもある。
婉曲語は人を傷つけないための道具にもなります。しかし同時に、現実を覆い隠す道具にもなります。
どちらになるかは文脈次第です。
となると、本当に考えるべきなのは単語そのものなのでしょうか。「死」にモザイクをかければ何かが解決するのでしょうか?
おそらく違います。大切なのは、その言葉がどのような文脈で使われているかです。
死ねと他人を脅迫することと、死について哲学的に論じることと、死亡事故を報道することと、子ども向け番組で残酷な死を描くことは、全部違います。
しかしアルゴの自動判定は、こうした文脈の違いを扱うのが苦手です。だから最も簡単な方法として、文字や単語そのものを危険物として処理する。
そして人間側も、その論理に合わせて行動するのが現代社会です。結果として、社会の言語感覚まで単語ベースになっていく。
死という文字を見るだけで刺激的だと感じる。しかしフィクションとして包装された大量の死は平気で見る。
この感覚は、人間が長い歴史の中で自然に作り上げた倫理体系というより、異なる制度が継ぎ接ぎされた結果として生まれたものではないでしょうか。
広告規制、SNS規約、テレビ倫理、年齢区分、炎上回避、企業コンプライアンス、プラットフォームの自動判定。
それぞれには、それぞれの理由があります。しかし全部を重ね合わせると、妙な社会ができあがります。
死という文字にはモザイクがかかる。
その直後に、アニメでは首が飛ぶ。
誰もその全体を設計したわけではありません。だからこそ、奇妙なのだと思います。
婉曲表現そのものを否定する必要はありません。人間社会には礼儀が必要だから。状況によっては直接的な言葉を避けた方がよい。亡くなった人の家族に対して、あえて最も直接的な表現を使う必要もありません。しかし、何でも言葉を隠せば社会が安全になるわけではないでしょう。
むしろ重要なのは、
なぜその言葉を避けているのか。
誰を守るためなのか。
実際に何かを守れているのか。
単なる広告対策ではないのか。
機械判定への対策が、人間の倫理として誤認されていないか。
という問いです。
アルゴリズム上の都合から生まれた表現習慣と、人間社会の倫理は、本来別物です。それを混同すると、最終的には人間の言葉の方が機械に合わせて変形していきます。そして、その変形した言葉を使って育った世代にとっては、それが最初から自然な言語になります。ここまで来ると、YouTubeの規約の話ではありません。言語文化そのものの問題です。
では、死という文字を隠した先に何があるのでしょう。
死は人間の生活から消せません。性も暴力も病気も老いも差別も貧困も消えません。
社会にとって不快なものを表す言葉を次々と隠しても、対象そのものは残ります。
そして新しく作った柔らかい言葉にも、いずれ同じ意味が宿ります。
売春が援助交際になり、
援助交際が援交になり、
別の社会現象としてパパ活という言葉が生まれる。
女子高生が女子校生になり、
JKという記号になり、
そのJKが今度は独立した日常語になる。
死が伏字になり、
別の記号になり、
その記号がまた死という意味を背負う。
人間は言葉を替えることはできます。しかし意味から永遠に逃げることはできません。
だから本来考えるべきなのは、どの単語を隠すかではないはずです。
その言葉が指している現実を、どう理解し、どのような文脈で語り、どこまで許容するのか。
そこを考えるべきなのだと思います。
死という一文字にモザイクをかけながら、画面の中では人間の首が飛んでいる。
その光景は、現代の表現規範がいかに複雑で、いかに一貫性を失っているかを象徴しているように見えます。
そして、その規範を作っているのは、もはや法律や国家だけではありません。
広告主であり、プラットフォームであり、アルゴリズムであり、炎上を恐れる企業であり、それを先回りして自分の言葉を変える私たち自身でもあります。
だから、時代が変わったから仕方がないで済ませる必要はないでしょう。
むしろ、なぜ自分たちがその言葉を使わなくなったのかを、ときどき考えてみた方がいい。
言葉の変化を見ることは、その社会が何を恐れ、何を隠し、何を許容しているのかを見ることでもあるのです。




